「風景と風景画のあいだ 視覚と身体感覚」

制作の主要テーマ“風景”。自作制作時は風景画から始まり、制作が深まるとインスタレーション等多岐に渡って行く。現代美術を学びつつ歴史や名画の理解を深め、風景画と自作の関連を考察し、私達の現代性についての制作をする。

日本が重ねてきた時間、敗戦、高度成長、バブル、その崩壊、震災、民族意識、人口減少、消費、成長の行き詰まり。一見個人的な事や、身近な問題、例えば人間関係の軋轢や、生きにくさの裏にはこのような社会的な背景が少なからず影響していると思う。現代社会においての疲れ、閉塞感、傷つきを感じている人は多いと考える。特に若者たちは自分の生き方を見つけられにくい社会だと感じる。そこから私たちはどう立ち直り、それらとどう共存していくのか女性ならではの視点で美術を通し考えたい。特にこれまで歴史・文化史・美術史が男性中心であった後に、社会は男性のみでは存続し得なくなったと思うがその結果、男女の役目は複雑になり、特に女性の社会的な役目と家庭での役目を両立させるのは困難であると思う。

自分が少女から女性としてアイデンティティーを塗り替えていく中で、困難にぶつかった時にはいつも風景を見たり、風景画を描いたりした。そして制作が深まるとそれは風景画の枠を飛び越えた。自作は、形態としてはインスタレーションやパフォーマンス、ビデオなど多岐であるが、「風景画の発展したもの」という意識をしている。作品では風景が人を、ある意味で癒すことを扱っている。一見するとデフォルメをして、風景画とは見えず、癒しとは真逆の風貌を作品に込めることもあるが、それは既存の価値に対する抵抗や、役割の転換、美しさに対する概念の再提案など、現代性についての制作をしている。その結果、時に、現代社会で生きづらさを抱える人達は、社会に立ちはだかる既存概念から抜け出た自作を鑑賞して、ある意味の癒しを受け取るという。風景が人を癒すという感覚に関して、美術史を通して考察すると、風景画が流行したとされるのは人間と自然との役割や人間社会そのものに大変動があった近代である故の事ではないかと思う。私はこれを研究のテーマの一つとし、風景画と自作とを考察して、日本文化と欧米文化を融合した制作、今日の私たちが生きるヒントとなる制作をしたい。過去から受け継がれている風景画を、現代の作品として再構築し「風景と風景画のあいだ」「視覚と身体感覚のあいだ」にあるリアルな感覚を元に、自分よりも若い世代の人たちに向けて、作品を提供したい。ある人にとっては、その人の持つ傷や疲れに作用する、ツボを押すような役目を果たし、新たな価値観を受け取り、ある意味で癒され、何らかの形で元気になってくれれば幸いだ。

「福28ZAKI海浜博覧祭(ふくつやざきかいひんはくらんさい)」

本プロジェクトは「家庭とアート」をテーマとし、私の生い立ちや生まれ故郷と密接した生まれ故郷である福岡県福津市で始められ自身が作家として活動する傍らに、自ら作家兼ディレクターとしての活動し2013年より「28ZAKI海浜博覧祭」と名付けられた。グループ展やトークショー、パフォーマンスのプロジェクトとして行われており、そこには必ず私の家族である友清家の姿と田村家、妹達の家族と、彼らと関わった時間が組み込まれている。私は1984年に福岡で生まれ19才で上京する。生まれ故郷を離れる年に、自分たちの町は近隣の2つの町と周辺地域で合併し、町から市となったこと、市は2つの町の頭文字を合わせ「福津市」と名付けられた。福岡に関連した活動をするようになった背景にはつぎのようなことがある。東京で原風景をモチーフにしながら制作する一方で、原風景のあった実家の周辺では合併を堺にしたかの様に開発が進み変容していった。開発と、東京で自身が体験した東日本大震災をきっかけに、「原風景」のある「生まれ故郷」とはいつでもそこに変わらずにあり続けるという自分の中での「常識」が覆っていったことがある。 プロジェクトは私をめぐる家庭の歴史とプロジェクトの濃密な時間、時代の流れが分ちがたく結びついているが、それは歴史の決定的な瞬間を切り取る「アーカイブ」ではなく、喜怒哀楽を胸に秘めた一人ひとりの人間のありようと移り変わりに重きを置く「メモリー」である。「メモリー」が「アーカイブ」に変質するのが自然体なのではないか。過去化することが出来ないという意味において人間が「生きる」という現在進行形にのっとり私は「リアルタイム感」を重要視してこのプロジェクトを進めたい。